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  • History of GARAM SPEED DASH 日本のスピードセイリングはガラムとともに
 ウインドサーフィンにおいて、スピードセイリング競技というのは古くから存在していた。しかし、レースやウェイブと違って、日本においての公式のスピード競技は、20年以上前にわずか一度琵琶湖で開催されただけである。それは、計測区間500mという長い直線コースが必要で、しかも海面はフラットであればあるほど良く、最もスピードが出せるダウンウインドでカッ飛べる風向と風速が必要という、開催するにはさまざまな条件が整っていなければならず、残念ながら日本にはそういう場所がなかったことが、他の種目に比べスピード競技が日本で行われてこなかった原因である。
それではいけないと1991年、当時「ウインドサーフクラブ」編集長だった私は、雑誌の企画の一つとして、距離を500mから100mに短縮し、ビーチと平行に100mダウンウインドで走り抜けられる場所(これならば100mという距離を正確に算出できるから)を探し出し、記事としてスピード計測を行ってみた。場所は千葉県富津岬、計測はもちろん手動でストップウォッチを使用。風速は6〜8m/sと大したことはなかったが、最高41km/hオーバーを記録した。
当時は携帯用GPS機器がまだなく、普通のプレーニングスピードがどのぐらいなのかもよくわからないぐらい時代だったので、この企画はそれなりに反響を呼んだ。そして翌1992年1月、同誌主催で場所を静岡県天竜川河口に移し、「第1回天竜100mダッシュ」が開催された。距離が短いので世界基準の公式競技ではなかったが、まさに久々の日本におけるスピード競技開催となった。

左から:1994年ガラムがスポンサーに就いたことによって、
国内唯一にして屈指のスピードイベントとなり、回数は7回を刻んだ。
時に15m/sを超えるブローに恵まれた大会も何度かあり、選手たちは自分の限界に挑戦した。
ガラムがスポンサーになる前、雑誌主催で初めて100mダッシュを行った第1回大会で優勝したのは、今は亡き飯島夏樹だった。

手弁当で行った第1回大会、優勝は飯島夏樹、記録は33.93km/hだった。

 当時の編集部を中心に運営を行うため、計測等の手間を考慮し、定員を50名と設定したが、反響は予想以上で編集部の電話は鳴り響き、エントリーはあっという間に定員を超えて70名に達した。

 時は1月、極寒の季節、天竜川の水温は7℃しかなかった。冬型の気圧配置が決まれば、御前崎と同じようにちょうど西の季節風ここにも吹き込んでくる。しかし予報に反して冬型が緩み、風は吹き上がらずに4〜6m/sだったが、それでも参加選手はスピード計測そのものが新鮮だったようで、みんな熱く記録を狙っていた。そして2日目の午後にやっと風が少し上がり、コンスタントにプレーニングするようになり、最終セッションは俄然ヒートアップ。最後の最後に唯一10秒台の記録を叩き出した飯島夏樹が、逆転優勝を飾ったのであった。

GARAMの冠イベントとしてパワーアップした第2回大会。城和や辻井を抑えて早川憲一が51.724km/hで優勝

 前回の成功を受け、第2回大会からスピードダッシュに「GARAM」が冠スポンサーに就いた。1994年3月、スピードフリークたち再び天竜川河口に集結。開催日程は3日間だったが、初日は風もなく穏やかで、2日目も夕方に少し吹いたが風向が変わり、ウェイティングが続いたが、最終日の午後、やっと西風が吹き始め、本格的にセッションがスタート。続々と有力選手が記録を刻み始めた。結局、優勝候補筆頭の城和紀之は50km/hに届かず49.724km/h、Wカップにも参戦していた辻井孝之が50.000km/h、山形雅俊が51.650km/hで、優勝したのは51.724km/hを叩き出した早川憲一だった。

第3回大会ではついに60キロ越えを果たす。優勝は杉原裕史で61.962km/h

 第3回大会は1995年3月に開催。今まで潤沢に風が吹いてきたとは言えないスピードダッシュだったが、この第3回は朝から10m/sを超える風が吹き、途中で風向きが少し振れたものの、午後にはブローで15m/sまで風が上がった。しかし、ささくれ立つ波やや上り気味になってしまったコースの関係で記録はそれほど伸びず、午後3時に終わった第1セッションで50km/hを超えた選手は一人しかいなかった。そのため進行方向を反対に変更して第2セッションが連続して行われた。すると、あっさりと50km/h、いや55km/hを超えてくる選手が次々と現れる。時刻が5時を過ぎると夕焼けが広がる中で、長屋消人、山形雅俊、江宮慶治といった面々が60km/hの壁をついに突破した。そしてセッション終了直前、最高タイムが記録された。5秒81=61.962km/h、杉原裕史だった。彼が第3代のスピードキングに輝いたのだった。

2年ぶりの開催となった第4回大会は長谷川裕司が53.333km/hで優勝

 1997年11月に開催された第4回大会は15m/sを超えるブローが吹き抜け、風速的には恵まれていたが、泡立つ海面はスピードを出すにはハードすぎるコンディションで、計測コースを走行することにもテクニックが必要だったため、風速のわりには記録が伸び悩んだ大会となった。  優勝したのはまだ無名だった長谷川裕司。記録は53.333km/h。前回優勝の杉原裕史は2位、優勝候補の一人合志明倫は4位に終わった。

風に恵まれなかった第5回大会は44.55km/hでアマチュアの宮田康司が優勝

 第5回大会は1998年12月に開催。残念ながら西高東低の気圧配置が決まらずに、風速は5〜6m/sといったところで、大きなボードとセイルでやっとプレーニングするというコンディションだった。セッション開始直後のブローを上手く捕らえたアマチュアの宮田康司が、杉原裕史や合志明倫らを抑えて、44.55km/hの記録で優勝した。なお、女子は今や日本が誇るワールドカッパー名越純子が優勝を果たしている。

強くないブローがガスティに入った第6回大会、山本大輔選手が52.789km/hで優勝

 1999年11月に開催された第6回大会は2日間ともに風が吹いたが、弱めでガスティだったため、使用する道具は大きく、セイルサイズは8.0台、ボードも290クラスとなった。最高スピード記録の更新はかなわなかったが、ビッグギアでの50km/h越えは、別の意味で重みのある記録となった。優勝したのは52.786km/hを記録した山本大輔。

ブローで7m/sという微風だった第7回大会 優勝は中川義博で記録は39.258km/h

 第7回大会は2000年11月に開催。ガラム天竜100mダッシュとしては6回目となる。ここ天竜川は、強力な西高東低でないと、スピード計測向きのコンスタントな強い風が入りにくいが、この年は前年よりもさらに風が弱く、最高記録でも40km/hに届かず、記録的に低調に終わってしまった。優勝は中川義博で記録は39.258km/hだった。

 ここ数回、風に恵まれず記録が出なかったこともあって、残念ながらこの大会を最後に「ガラム天竜100mダッシュ」はその幕を一度おろすこととなったのである。

 しかし、ガラムが長年サポートしてきたこの大会が日本のウインドサーフィンに果たした役割は決して小さいものではなかったと言えるだろう。それはこの大会によって日本にスピードセイリングというジャンルと、その楽しみ方を普及・定着させたからだ。逆にこの大会がなかったら、日本のウインドサーファーたちはスピードセイリングという楽しみ方を、今でもほとんど知らないで過ごしていたかもしれない。

 そして昨年、そんなスピード競技が、今や世界標準となっているGPSを利用する競技形態に変更し、場所もフラット海面が期待できる本栖湖に変更され、再びガラムがサポートして復活したのはご存知の通り。ぜひ、次年度の開催も切に望みたいところだ。

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過去記事

1995年の第3回大会で、初めて60km/hオーバーを達成。優勝は杉原裕史、記録は61.962km/hで、この記録が結局100mダッシュの最高記録となった

好記録は決して風速の高さによるものではない。道具の選択から荒れる海面との調和やコースなど、スピードはかなりテクニカル、かつタクティカルな競技だ