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  • COLUMN『元編集長KENの「今だから言える話」vol.0/INTRO』

 ウインドサーファー誌は残念ながら今年の6月売りをもって休刊となりました。気がついてみると、私は、1981年からウインドサーフィンの専門誌にかかわってもう29年、編集長として27年の年月を刻んでいました。まさに気が遠くなるほど長い年月です。ウインドサーファーはもちろんのこと、その前身である「ウインドサーフクラブ」、さらにその前の「ハイウインド」と、編集長を努めたのも3誌にわたります。作ったウインドの専門誌の数は、単行本や別冊を含めて200冊をゆうに超えていました。振り返ってみると、本当にバカみたいに作り続けてきたと思います。
 当然いろんなことがありました。ウインドサーフィンそのものも取り巻く環境もウソみたいに変化してきました。一つの区切りを迎えた今、ちょっと振り返って、決して記事にはならないような話やエピソードなどを述べていくことにしましょう。その時代のウインドが反映されていて面白いかもしれませんよ。

 

元編集長KENの「今だから言える話」vol.1
恐るべし全盛期のウインドサーフィンブーム。
ショップのレジから札束が飛び出し、
西武や丸井という百貨店でウインドサーフィンが販売されていた。


 今でこそウインドサーフィンというスポーツは社会的に知られて入るものの、そのステイタスも、プレステージ性もパッとした存在ではありませんが、その昔、1980年代前半におけるウインドサーフィンは、社会的にも一大ブームとなっていて、それこそ「ウインドバブル」とも言うべき現象が、至る所で起こっていました。キャリア20年以上を誇る人ならば、このウインドバブルを多少なりとも経験していると思いますが、キャリアがそれに満たない人は、当時の狂乱時代は信じられないことでしょう。

 現在と最も違う点は、何よりも社会全体からウインドサーフィンに流れ込んできた「お金と人間の量がハンパなく多かったことです。それはまさに洪水のようでした。たとえばピークの夏の週末は湘南のショップのレジにお金が入り切らずに溢れ出ていたとか、女性に人気のあるスポーツの上位に入っていて、ウインドサーファーは女性にモテまくったとか、社会的なことから個人レベルのことまで、それこそ細かいことまで、エピソードに事欠きません。機会があれば大ベテランの人に当時のことを聞いてみてください。彼らも少なからず何かしらの恩恵を被ったことでしょう。  大きな資本が業界に参入してきたのもこの時期でした。

 小売りの方では、ショップは日々全国各地に新しくオープンし、若者にカード文化を定着させた赤いカードの「丸井」や「西武百貨店」では、ウインドサーフィンが堂々と店内にディスプレーされ、ボード一式を買った人もたくさんいました。当然、ビクトリアやミナミスポーツ、アルペン、スポーツタカハシなどスポーツ量販店での販売は常識となっていました。

 ウインドサーフィン関連商品を扱う会社や開発する企業が多数誕生し、独立系のメーカーはもちろんのこと、複数の一部上場企業もウインドサーフィンに参入したり、参入の準備を始めていました。

 有名企業ではヤマハ、ブリヂストンがボードメーカーとして参入したのはかなり知られており、かなり長い間、本格的にウインドサーフィンのボードを作っていましたが、他にも、ヤンマー、イワタニ、ダイワ精工、S&B食品の関連会社、ゴールドウィン、フェニックスなどのスポーツウェアブランド、海運王手スワイアグループの関連会社、それに多くの中小商社など、それこそ日替わりでいろんな会社の名前が聞こえてきました。

 当然、ウインドサーフィン人口は、1980〜85の間は急激な右肩上がりの線を描いて上昇していきました。テレビや雑誌などマスコミにウインドサーフィンが露出する回数も多く、一世を風靡していた「ポパイ」にはウインドサーフィンの特集が組まれ、さまざまなスポーツのハウトゥシリーズとしてヒットしていた「スポーツノート」のウインドサーフィン号は、当然ベストセラーになりました。

 もちろんウインドサーフィンの専門誌も多数誕生してきました。月刊誌としては当時、私が属していた「ハイウインド」をはじめ、「ウインドサーフィン」「ウインドフラッシュ」「ウインディノート」「フリーライド」などがあり、それらの別冊や単行本などの単発ものも数多く出版されました。

 雑誌だけではありません。映画や漫画の題材としてウインドサーフィンが取り上げられ、青春ドラマなどがそれらのメディアで展開されました。ウインドサーフィンの映画と言えば、一昨年公開された飯島夏樹氏の映画を連想する方が多いと思いますが、その当時は松田聖子と中井貴一主演の青春ドラマ「プルメリアの伝説」や吉川晃司主演の「ユーガッタチャンス」などの映画が公開されていたのです。「ミストラルジュン」という連載漫画(記憶が確かではありませんが、確か少年チャンピオンだったとおもいます)もありました。

 また、CMにもウインドサーフィンがよく採用され、セイリングの映像はもちろん、一番メジャーなところでは森永乳業の乳飲料「PICNIK」がハワイロケを敢行し、当時イケメンライダーとして日本でも人気があったリチャード・ホワイトがそのままモデルとしても採用されて、ゴールデンタイムも含めて、全国ネットでオンエアーされたこともあります。また、アデランスのCMでも当時プロだった日本人のM氏がそのまま出演していました。

 このように80年代前半は、ウインドサーフィンのブームがかなり大規模に世の中を席巻していました。そして、そのような社会背景があったからこそ、大手企業がスポンサーに名乗りを上げ、そしてついに1984年10月に静岡県御前崎で「サムタイム・ワールドカップ」が開催されるに至るわけです。